Our Name. – ハバタクグループ起業のきっかけ(3)

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いよいよ起業に向けて経営合宿を決行することになった丑田・長井・小原(チームUNO)の3人。行きの車のなかで社名を決めなければならないことに。果たしてどうなる??

  • なんでIBMを辞めたのかについては第1話
  • 起業チーム発足の経緯は第2話

 

長井の腹案

合宿当日(2010年8月28日)。模造紙やらマジックペンやらを満載した車で私たちは出発しました。目指すは草津温泉です。到着までの3時間で、まず社名を決めなければ…!

番屋会談のときから変わらないスタイルで、車内の窓ガラスにペタペタとポストイットを貼りまくりながらのブレストが始まりました。

ところで、私にはとっておきの腹案がありました。当時若手のコンサルとして自己研鑽に励んでいた(つもりの)私は、クリエイティブな発想力を鍛えるためにネーミングに凝っていたのです。そのときのバイブルは、docomoauなどの命名で著名な横井惠子さんの『ネーミング発想法』でした。

そんな私の最強の腹案。それは…

トリニーク(TRINIK Ink.)

でした。

込めたかった意味としては「取りに行く」、つまり興味のあることにどんどん首を突っ込んで行動するような主体性を育てたい、というのが主なポイントでした。また一見奇妙に横文字化しているのは、当時教育事例として注目していた北欧の言葉の響きを取り入れたかったから、という理由です。

起業後に訪れたデンマークの小学校の風景。この話はまた別の記事で。

あまりここまでのストーリーに登場していませんが、世界の教育事例を調べるうちに強烈にインスピレーションを受けたのが炭谷俊樹さんの著作『第3の教育』でした。炭谷さんがマッキンゼーのお仕事でご家族とともにデンマークに住まれた際、お子さんが受けた当地の全人教育と探究教育に感銘を受け、帰国後には自分で子どものためにデンマークスタイルのフリースクールをつくるに至った…というストーリーは鳥肌ものでした。もちろん、そこで紹介されているデンマークの教育についても、いまだ日本の教育がなし得ていない様々な示唆が満載でした。その後炭谷さんに何度かお会いさせていただいたり、六甲山での研修に参加させていただいたりと、いまでも師のひとりとしてお付き合いさせていただいています。

というわけで車中のブレストのなかで私は自信満々に「トリニーク」案を披露したのですが、候補を整理する段階で

「なんかそれ、鶏肉みたい」

という一言によってあっさり片付けられてしまいました。うん、たしかに鶏肉みたいな響きですね。認めざるをえない。撃沈。

かといって他にあまり有望な候補も残らず、ブレストは後半戦に突入したのでした。

どなたかトリニーク案を社名で使いたい方、お譲りしますのでご連絡ください。

先輩起業家に学べ

そうこうしている間に車は草津温泉に近づいてきました。残り時間がなくなってきて焦る面々。ここでいったん「他のベンチャーでいいなと思う社名ってどんなやつ?」という情報共有に切り替えました。

筆頭で上がってきたのが同じ教育ベンチャーの先輩であるリバネスでした。Leave a Nest(巣立っていけ)という英語のメッセージを持ちながら、名称としては4文字で短く呼びやすい。こういうのがクールだよね、という話になりブレストが再開。

リバネス社。丸社長をはじめとして理系軍団が縦横無尽に活躍する素敵な会社です。

「ハバタク」が生まれる5分前

リバネススタイルを参考にしつつ、“Have a ◯◯”で「ハバ◯◯」みたいにできるのではないか、という話題になり、ここに突破口を見出したい3人は頭をフル回転させて必死に単語を当てはめ始めました。

ここで出てきたのが“Have a To-Be”で「ハバトビ」というアイデアでした。To-Beはコンサルタントがよく使う言葉で「あるべき姿」とか「理想」くらいの意味です。「理想を持とう!」というメッセージが込められるので一同はひとしきり盛り上がりました。が、「でも、幅跳びって…」という一言で消沈。たしかに躍動的なニュアンスはありますが、幅跳び自体に思い入れがとくになかった我々は「惜しいが、違う」と判断せざるを得ませんでした。

幻の「ハバトビ」案。我々が陸上部出身だったらハマったかもしれません。

そして「ハバタク」誕生

“Have a ◯◯”の路線でさらにブレストを続ける3人。そしてついに「”Takt”(タクト)はどう?」という一言が飛び出します。

“Have a Takt”で「人生の指揮棒を持とう」という意味を持ち、カタカナでの「ハバタク」は「世界に羽ばたく人を応援する」という意味を持つというダブルミーニングのネーミングがついに完成したのです。私がクラシック音楽好きだったため、タクト=指揮棒というメタファーも相性が良く、しかも盛り込みたい自分たちの理念がキレイに名前のなかに納められている。どう考えてもこれ以上の名前はない!というレベルの「決まった感」とともに、全員一致で社名決定となりました。

社名のもつ力

以前の記事にも書きましたが、社名や商品名は魂を込めて検討する価値のあるものだと思います。このあと「ハバタク」の社名はコクヨファーニチャーさんの賞を受賞したり、たくさん人に「面白い社名だね!」と言っていただけるようになりました。そうした対外的なメリットもありますが、それより何より、事業がうまくいかないときや辛いときに「ハバタク」の社名に立ち戻ることで初心に還ることができたという実感があります。たかが名前、されど名前。この名前のパワーに背中を押されて、3人の起業への勢いはいっそう増していくのでした。

 

さて、社名の次は事業計画。ここで我々は手痛い失敗をするのですが、それが判明するのはだいぶ先のことなのでした。

続きます!

  • なんでIBMを辞めたのかについては第1話
  • 起業チーム発足の経緯は第2話

At World’s Bend– ハバタクグループ起業のきっかけ(2)

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今回はタクトピアを含むハバタクグループの立ち上げストーリー第二弾をお送りします!第一弾はこちらからどうぞ。

チームUNO発足

リーマン・ショックをきっかけに巨大なモヤモヤを抱えた丑田・小原・長井の3人は、2009年の後半からIBMの会議室に夜な夜な集まり、「自分たちにできることを考えよう」と闇会をおこなうようになりました。

このときは「ハバタク」の名前もまだ誕生しておらず、仮のチーム名として”UNO”と名乗っていました。UNOとはイタリア語で”1”の意味です。「目指すならオンリーワンだぜ!」みたいな、SMAPの歌が流れてきそうな軽いノリで決めた名前ですが、よくよく見てみると偶然にもUshida, Nagai, Oharaの頭文字になっていると分かり、狂喜乱舞した記憶があります。思えば昔から妙にネーミング運の強いチームでした。

チームUNOのタイトルスライド。顔のマークは小原作。

さてチームUNOとして闇活動を始めた三人ですが、しばらくは「自分たちでもできそうなビジネスアイデアをどんどん出していこう」という方針で週1ミーティングを重ねていました。曜日ごとに担当を決めて、スライド1枚でビジネスアイデアを書いて共有しては意見をぶつけ合う日々。コンサルという仕事柄こういうこと(実行ではなく紙の上でアイデアをこねくり回すこと)は得意で、何十とアイデアが溜まりました。この中には今でいうランサーズのようなアイデアもありました。一言で言うならば、デザイン領域で実績を積んでいきたい若手のデザイナーと、ロゴやパンフレットの装丁などにデザインの力を借りたい中小企業を結びつけるプラットフォームビジネスです。私たちはこれをDesign Tankというコードネームで呼んでおり、半ば本気でこのアイデアでの起業を考えていた時期もありました。

「これって”教育”っていうんじゃない?」

しかし、アイデアを出せば出すほどモヤモヤは溜まるばかりでした。山ほど出したアイデアたちはぱっと見よさげでしたが、結局「なんのためにやるの?」「自分たちは何を変えたいの?」というパッションが込められていないからです。自分たちがそれなりの労力をかけて取り組むからには「これだ!」という旗印を立てたい。そこで今までのアイデアや集めた情報を全部持ち寄り、八重洲の番屋という居酒屋にこもって会議をおこなうことになりました。

のちに言う「番屋会談」(2010年4月16日)がおこなわれた番屋の八重洲本店。お店はいまも健在です。

たまたま個室に通されたのをいいことに壁にポストイットを貼りまくり、問題意識の深掘りをしていきました。私たちの問題意識のスタートはリーマン・ショックで揺れに揺れたIBMの社内の風景でしたが、それをきっかけに自分たちのアンテナに引っかかるデータや話題を芋づる式に集めていたのです。たとえばこんなものです。

  • 新興国が急成長するなか、存在意義を問われる日本(と日本企業)
  • グローバルで活躍できる人材を求める経営陣とグローバルに出たくないワーカーのギャップ
  • 幸福度ランキング、労働時間あたりGDPで下位にあり続ける日本
  • 将来の夢を持てない、自分に自信がない、と答える割合の多い日本の子どもたち

などなど。

もともとがコンサル視点のため、最初の着目点はどちらかというと産業界でした。外的環境の変化が速まっていくなかで、「仕事」に求められる質も変わってきているのは肌で感じていたため、もっと企業の枠にとらわれない軽やかな働き方を支援したい…といったパッションが共有されていたと記憶しています。だからこそ、フリーランス的な働き方を推し進めるDesign Tankのようなアイデアが自分たちの心を捉えていたのだと思います。

ただ、そこが本質的な問題の根っこなのか?というモヤモヤも残っていました。オトナの働き方が変わるのも当然大事だけど、そもそもから言えばオトナになる前に新しい時代に対応したスキルとか考え方を身に付けておくべきなんじゃないか?と。折しも丑田と私には娘が誕生することが判明したこともあり、私たちの視点はどんどん若い世代へと遡っていきました。そしてついに「これって…”教育を変える”ってことなんじゃない?」という結論へ達したのです。

そして初の経営合宿へ

その後にまとめたチームUNOとしてのビジョンシートには

生まれた場所や環境に関わらず、全ての人間が、夢・志を持ち、これを実現するための力をつけ、実現に向けて走ることができる社会

という言葉が見えます。細かい文言は違えど、ハバタクグループがいまも大事にしている世界観がいよいよ定まってきました。

当時のビジョンシート。ビジョン・ミッションのほか、いまは「グローカルリーダーシップ」「多様性 x 創造性 = 共創的な学び」と整理されている私たちのゴール設定の原型が、スライド下半分に書かれています。

新しい事業の旗揚げに向けて一気に盛り上がりを見せるチームUNO。こんな↓メールのやりとりの末に「ここらで一発、経営合宿をやろう」ということになりました。よく考えれば社名もなければ事業計画もない。自分たちが具体的に走り出すための準備を整えていく段階に入りました。

ハバタクグループの合宿好きはこのあたりからすでに始まっています。

ただ、問題が一つ。合宿で検討すべきアジェンダがありすぎて、行き帰りの車の中まで打ち合わせに使わなければならず、社名は行きの車の中で決めなければならないことになりました。大事な社名をそんな超スピードで決められるのか!?と初っ端から不安がよぎる面々。この顛末は次回に語りたいと思います。

※まだ第一弾を読んでないよ!という方はこちらからどうぞ。

The Working Dead – ハバタクグループ起業のきっかけ(1)

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最近よく「なんでIBMを辞めてわざわざ起業したんですか?」と聞かれるようになりました。今回はこれについて書いてみようと思います。少し長くなりそうなので数回に分けて大公開します!

私は2007年に東大の大学院からIBM(当時はIBCSという別会社でした)のコンサル職として入社し、3年半在籍してから起業となりました。正直私は腰が重いほうなので「まあマネージャー職も経験したりして10年間は会社にいるかなー」などと考えていたのですが、ある出来事をきっかけに急速に起業へと舵を切ることになります。

それがリーマン・ショックでした。

当時私はただのペーペーの新人であり、仕事として大変だったのはもっと年次の上の方々だろうと思います。ただ新人には新人なりのショッキングな思い出だったのです。

 

そのとき社内で何が起こったか

金融危機の波がアメリカから押し寄せ、あっという間に日本市場も影響を受けました。コンサルという仕事は特に影響を受けやすかったようで、たくさんのプロジェクト*が緊急停止となり、当時2,000人弱いたIBCSのコンサルタントたちのかなりの人数が仕事にあぶれるという異常事態になりました。

 

*コンサル業界においてはすべての仕事は「プロジェクト」という単位で行われます。大雑把にいえばプロジェクトが小さな会社みたいなものであり、プロジェクトマネージャーと呼ばれるポジションの人が小さな社長となって予算や人事について采配をふるいます。プロジェクトに所属していない期間のコンサルタントは”available”という状態となり、よく言えば休暇、悪く言えば社内失業という立場になります。

 

そんな事態のなか、私が何をしていたかというと…同期と飲み歩いていました。私自身は幸いにプロジェクトから外されることはありませんでしたが、一番極端だったときには全体の7-8割の同期がavailableとなり、みんなが不安がって情報交換を求めていました。お給料に響くというのもあったかもしれませんが、「自分はどこにも必要とされていないのではないか」という恐怖が蔓延していた気がします。

昼間からオフィスを出てハンバーガーとビールを喰らう会@本郷FireHouse。店外のベンチに座りながら同期といろいろな話をしました。

その不安なり恐怖なり怒りなりの矛先がどこに向いていたかというと、当然会社でした。でも、その会社のなかで私はいまでも忘れない光景を見てしまったのです。

 

静かな危機の風景

予備知識として先に言っておくと、コンサルティング会社のオフィスは固定席がないことが多いです。なぜならば平時であれば多くのコンサルタントはお客様先に出勤するからです。私の聞いたところでは、全社員の人数の20%ほどしか自社には席を用意しないとのことでした。

それが、このリーマン・ショックでどのように変化したか。前述のようにavailable状態が勃発したため大量の社員が丸ビルの自社オフィスに戻ってきてしまいました。しかし全社員分の席は当然ない。座りたくても座れない。かといってオフィスを離れたくもない(仕事が欲しい)。結果として、ややうつろな目で空席を求めるコンサルタントが永遠にさまよい続ける、ゾンビ映画のような風景が登場したのです。

私は The Walking Dead のファンです。特にゾンビ好きというわけではありませんが。

私がショックを受けたのは主に3点でした。

  • 誰もしゃべろうとしない。多くの人は同じ状況なのだから、不安をシェアしたり役立つ情報を交換したり、雰囲気を明るくしようとギャグをかましたり、なぜしないのだろうか。
  • みんな会社に期待するばかりで、自分でなんとかしようとはしていない。私が知る限り当時のIBCSの方々は超優秀であったにも関わらず、自分で状況を打破しようとしない。なぜなのか。
  • 一方で会社のほうの動き。IBMは世界最強クラスのガバナンスをもつ企業であり、人員整理のタイミングも超早かった。日本で人を減らす代わりに大量に登用していたのが中国とインドのメンバーだった。新興国のパワーが目に見えてやってきた。

もしこの状況がずっと続いたら、この人達はこのまま無表情のままずぶずぶと沈んでいくつもりなのだろうか…とやるせない感情が沸き起こったのを覚えています。

注:上記はあくまでも狭い私の視野で見えたモノと感じたコトであり、あくまで個人的な見解です。もちろん当時の会社内では状況を打破しようとたくさんの方が動かれていたと思います。この記事の目的は私がいかに若気の至りで起業のきっかけを掴んだかを書くため、ということでご了承ください。

そこから、ハバタクの創業メンバーである丑田俊輔と小原祥嵩との夜な夜なの会談が始まりました。といっても自分たちでも何を話せばいいのか分からず、ただやるせない感情を言葉にしてみたり、新しいビジネスのアイデアを何十と出してみたりしたものの、それが何に繋がるかは分からない。ハバタクの根幹のテーマである「教育」にたどり着くまではもう少し時間がかかりました。

 

(続きます!)